理事長ブログ
- 2019/01/20
- 19:23
子猫は今、一回り大きくなっているらしい。
昼間はJRの電車を眺めてのどかに過ごし、床屋の青年が帰ってくれば飛びついて喜ぶらしい。
夜の大運動会をして青年の睡眠時間を妨害し、朝には煖房と食事を要求するためにちょっかいを出してくる。
構ってもらいたい子猫と構いたい青年とで楽しく毎日を過ごしているらしい。
前足の骨折と脱臼は真っ直ぐにはなっていないが骨は治ったらしく、気が付かないほどに普通に歩いているらしい。
眼は点眼薬を処方されたが涙が止まらなく、時折血も混じりくしゃみも止まらない様なので、動物病院の先生から手術を勧められたらしい。
右目の涙腺を除去し、瞼を縫合すれば涙もくしゃみも収まるようだ。
こうして子猫はやっと安住の場所を見つけたようだ。
私はその子猫の人生の一部にしか携わっていないが、子猫が一番危機的な状況で運命的な橋渡しが出来たのかと思う。
あの時、弱々しく道のそばで怪我の痛みと空腹で鳴きながらすり寄ってきた子猫は、安住の空間を得るチャンスを自分の能力で手に入れた。
子ども食堂の運営も子猫の出来事に通じるものがある。
不安や問題を抱えている子ども達は決して多くはないが少なからずいる。
私はその子達の人生の全てを見ることは出来ないし、全て救う事も出来ない。
だが、子ども食堂を続けて行けば子猫の時のように「危機的状況で運命的な橋渡し」を行う事が出来るかも知れない。
大なり小なり問題を抱えている子はいる。
自分や家族で解決できる子達には楽しい子ども食堂で良い。
自分で解決できない子達の弱々しいメッセージをキャッチすることが出来れば、その子達にとって少しでも良い世界へと橋渡しできるかも知れない。
子ども食堂はまだ黎明期だ。
始まったばかりであってまだ答えも正解も出ていない。
ただ、目の前の問題に無視できない人々の善意や、理屈や理論の答えが出ていない中でも直感的な判断で子ども食堂が必要だと感じた人たちがこの黎明期の子ども食堂を支えている。
子ども食堂に否定的な人や懐疑的な人たちもいる。
そうした人たちと話をしても会話で否定的な懐疑的な考えを変えることが出来ても、否定的な懐疑的な気持ちは替える事は出来ない。
だから私は子ども食堂の思いや、自分の考えを伝えることはあまりしていない。
本当はそうした話や思いを伝えなければならないのかも知れない。
特に理事長と言う立場でもあり、様々なボランティアさんや協力者さんの思いを受け止める為にはもっと声高に言わなければならないのかも知れない。
だが、私がそれを言っても今はまだ仮説でしかないし、平たく言えば私の思い込みかも知れない。
人それぞれの意見や考えはそれぞれの仮説や思い込みかも知れない。
だから私は
私の子ども食堂の活動は間違っているかも知れない。
私の子ども食堂の活動は無駄な事かも知れない。
私の子ども食堂の活動は迷惑な事かも知れない。
そうした意見は否定しない。
でももしかしたら
私の子ども食堂の活動は正しいかも知れない。
答えは結果の中から出てくるだろう。
子猫を助けた事に興味を示さない人もいる。
否定的な、懐疑的な人もいる。
或いはこちらが驚くほどに感動してくれる人もいる。
子ども食堂に興味を示さない人もいる。
否定的な、懐疑的な人もいる。
或いはこちらが驚くほどに感動してくれる人もいる。
答えは行動の結果に表れるだろう。
だから私はその答えを出すために動くしかない。
勿論、私は私の子ども食堂の活動がまだまだ非効率であっても正しい活動であると信じている。
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